主屋は、大正10年(1921)この地で酒造業を営む美山多右衛門が起工し、大正12年(1923)5月6日に美山太七が上棟式を行っている。棟札によると総棟梁大工の永利松吉他、大工、石工、木挽、塗師、左官等26人の記名が見られる。
主屋は、敷地南西部に位置し、二階建、木造、切妻造、桟瓦葺、南面に玄関を突出し、入母屋造、銅板葺とする。東面南側に平屋を、北面に配膳室及び物置を付属する。外部は南面妻壁に鏝絵を描く。内部は土間及び控え和室は吹抜けとし、控え和室上部は二階から寺院風の高欄を廻す。大黒柱、差鴨居、上框等には欅の大径材を使用する等、土間の大空間と木材を意匠的に見せている。
倉庫は、主屋北側にあり、桁行七間、梁間二間、木造、切妻造、桟瓦葺で、屋根の東寄りに大きな煙り出しが付く。南面側柱筋西端一間を主屋との繋ぎ廊下とし、北面東より第三間及び第四間に桁行二間、梁間一間半の流し場が突出する。
軸組は、花崗岩の切石土台を廻し、柱を半間おきに立てる。出入口には?を入れる。小屋組は、折置組の和小屋とし、梁間を二重梁とし、桁行中央にも中引梁、棟受梁を二重に掛ける。

外部は、腰壁を目板張りとし、上部を真壁漆喰仕上とする。建具は、出入口を片引板戸とし、窓を竪格子及び障子窓とする。東妻面と南面東より三間まで、側柱の足元を花崗岩の短柱とし、腰を長手半枚積の煉瓦壁とする。

内部は、全て土間、真壁漆喰仕上とし、東一間半と西五間半を間仕切壁で分ける。西部屋の東より二間半の柱筋に垂れ壁の痕跡があり、当初はさらに二室に仕切っていたと考えられる。東部屋南西隅には流しの跡が残り、西部屋南側の東寄りに焚口を四つ設けたタイル貼りの竈が残る。
現当主の記憶によると、酒造業を営んでいたときに、この倉庫は収蔵に携わる職人(くらおとこ)の食堂であったと言う。東部屋には天井に大きな煙出しがつくことや、その煙出しの部分に対応して、腰壁が石柱や煉瓦で造られていることから、この部分は釜屋として造られたことが推察される。
敷地内には主屋と同時に、番屋、酒造施設として精米所、室、酒蔵3棟、工場、水槽、煙突等が建設されていた。(注1)。

第2次世界大戦前に松岡吉次(1882?1979)が建物を購入し、有限会社松岡酒造を開業したが、正確な年代は不明である。
昭和20年(1945)3月27日の大刀洗大空襲の際、東側の座敷が爆撃に遭い、屋根が落下、西側の部屋も半壊する大きな被害を受けている。
昭和35年(1960)、酒造業を廃業し、それを機会に酒蔵、煙突等を撤去した。
昭和40年(1965)頃、創作懐石料理を供する料亭「とびうめ」を開業した。「とびうめ」は松岡酒造が醸造していた日本酒の銘柄に由来する。小郡市出身の詩人野田宇太郎が数回訪れ、自筆の詩を残している。
昭和50年(1975)、客室や廊下等の増改築を行い、平成3年(1991)台風19号により屋根瓦が損傷し修理している。
玄関門は「御門」と呼ばれ、主屋建築時に北隣の四三島(乙隈とする説もある)にあった屋敷から移築されたものと伝えられている。御門の建築年代は不明であるが、鬼瓦に「嘉永三年」(1850)の刻銘が見られる。御門は、一間一戸、薬医門、切妻造、桟瓦葺である。基礎は切石とし、軸部は親柱に冠木を渡し、控柱は親柱へ貫で繋ぎ、虹梁を架ける。軒は一軒で疎垂木とする。妻飾りはかぶら懸魚で六葉と樽の口を打つ。門扉は閂付き板戸で、正面に八双金物、唄金物を付ける。主な材種は楠を使用している。木柄が太く、要所に装飾を用いるなど、支藩の屋敷門としての風格を持つ。
平成23年度に控柱を根継し、裏甲を応急処置している。

石製門柱は、花崗岩製面取り瘤出仕上げで地上3.527m、鉄扉の取り付いた軸受金物と軸摺の基礎が残るが、現在は鉄扉が失われている。
鉱滓煉瓦塀は、玄関門の南側35.359m、北側主屋間5.138m、石製門柱の東側主屋間0.811m、西脇から南側49.501mで、延べ長さは90.809mである。花崗岩製面取り瘤出仕上げの布基礎に乗り、躯体をイギリス積(14?23段)、軒蛇腹三段積(二段目はもみじ積みとする)、屋根二段積とする。
以上により、この建物は小郡市の歴史と文化に寄与する貴重な歴史資料として価値が高く、登録有形文化財登録基準(平成17年文部科学省告示第44号)の「国土の歴史的景観に寄与しているもの」及び「再現することが容易でないもの」に該当すると考えられる。


注1:主屋は家族の居住部分とし、番屋は蔵男達の宿所であった。酒造施設のうち酒蔵1棟は昭和50年?55年(1975?80)頃湯布院へ移築され、その他は撤去され、水槽跡の煉瓦のみが残る。
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